エレキギター経歴
11歳の時、偶然観たテレビ番組に出ていた海外のロックバンドに衝撃を受け、その場でギターをやりたいと母親に宣言。
初めは中古のクラシックギターでコードを覚えて弾き語りの練習をし、12歳でフライングVの国産コピーモデルを買ってもらう。
そこから高校を卒業するまでロック漬けの日々となる。
(写真のギターがそれである。)
当時はヴァン・ヘイレンがデビューした直後ということもあり、アメリカン・ロック花盛りだったので、 流れに乗ってチャレンジしたりもしていた。
ただ、当時はあまりにもトリッキーすぎて挫折…。
しばらくしてブリティッシュ系、ユーロ系のクラシカルなロックに傾倒し、音楽作品としてメロディアスで魅力のある曲を演奏するギタリストを好んで聴くようになっていった。
リッチー・ブラックモア、マイケル・シェンカー、ゲイリー・ムーア、そして突然現れたランディー・ローズに衝撃を受けた。
ランディー・ローズについては、近年になって彼の生涯を綴ったドキュメンタリー映画が公開されるなど再注目される等、今でも僕のベスト フェイバリット ギタリスト。
大学に入ってからはロックから少しずつ離れ、その後フラメンコギタリストの道へ。
30年間のプロギタリスト生活を経た現在、永田ギター教室を通じて若い頃に没頭したロック音楽に再び触れて、改めて学び直す事にした。
まずその手始めが、何となく避けていたブルース…。
テクニカルなロックギターに惹かれていた若い頃には、ブルース音楽の真価がわからなかった。
今では、その魅力や音楽全般における重要性を痛いほど感じ、同時にブルースの奥深さや難しさ、魅力も実感している。
一般的にブルースは、ポピュラー音楽の原点と云われており、そのブルースを学ぶことで得られる感覚や手法が、全ての音楽に生きてくると考えている。
フラメンコギターで培った経験と、更にブルースから派生する手法を用い、生徒さんと一緒に成長したいと思っている。
講師演奏動画
フラメンコギター経歴
1990年 フラメンコギター独奏を吉川二郎氏に師事。
1992年 舞踊伴奏を木越剛氏に師事。
1993〜94年 渡西。
セビージャ滞在中、地元のアーティストと共に多数の舞台に立つ。
帰国後、踊りの伴奏ギタリストとして活動開始。
1999年 日本フラメンコ協会新人公演ギター部門にて努力賞を受賞。
ソロ活動を開始。
2006年 1st CD ”Paseillo por la orilla del Rio” リリース。
2007年 2nd CD ”Vient y Arena” リリース。
2012年 3rd CD ”Lunares negros” リリース。紹介動画はこちら
2013年 K. Yairi製作のWネックフラメンコギター(フレットレス&フレッテッド)が完成。
2014年 フレットレスギター、Stompbox(足踏みパーカッション)をソロ演奏に取り入れた一人だけのパフォーマンス”一人行脚”を開始。
2019年 一人行脚、全国47都道府県ツアーを成功させる。
2020年 二度目の一人行脚を開始。
2021年 アラブパーカッショニストの牧瀬敏氏とのDuo “魁 -KAI-” の活動を開始。
これを機に本格的にWネックフラメンコギターでの演奏を開始する。
2021年 4th CD “F -efe-” リリース。紹介動画はこちら
講師演奏動画
ギタリストになったきっかけ・エピソード
幼少期 音楽との出会い
母親は若い頃バレエとピアノをやりたかった人、
父親は若い頃にギターを少しやっていた
フランク・シナトラを歌うのが大好きな人、、、
6歳になってスグに、
「ちょっとだけ、ここに手をおいてみようか???」
と母親に騙されてピアノの先生の前で
鍵盤を押さえた事がきっかけで習わされるハメに、、、
(どうやら、手の大きさを見極めるテストだったようだ。)
最初は
大好きなヒーローもののテレビ番組を見ないで、、、
少し大きくなると友達と遊びに行くのを減らして、、、
レッスンや練習するのが物凄く嫌だったけど
半ば強制的に中学の頃まで続けた。
楽しくはなかったし、進んでやってたわけではないので
ソナタに入ったくらいまでしか進まなかった。
まさか、そんな音楽で生きていくことになるなんて
思ってもなかった。
子供時代 音楽の目覚め
11歳の時に
偶然観たテレビに出ていた海外のロックバンド
に衝撃を受け、その場でギターをやりたいと母親に宣言。
初めは中古のクラシックギターで
コードを覚えて弾き語りの練習をし、
12歳でフライングVの国産コピーモデルを買ってもらい、
そこから高校を卒業するまでロック漬けの日々となる。
(現在使用しているギターがそれである。)
中学に入るとロック好きの先輩の影響を受けつつ
同級生をそそのかして、ドラムとベースをやってもらい、
キーボードとボーカルを加えて文化祭バンドを作る。
このバンドではウケることを考えて
当時流行っていた日本のポップスを数曲やった。
バンドにハマった、、、
高校に入って本格的に学外で活動するバンドを作った。
地元のライブハウスを中心に地域のイベントなんかにも出演した。
評判は良かった。たぶん珍しかったから。
当時は気づいていなかったこと、、、
ヘタではなかったかもしれないが、
決して突出していたわけではないということ。
そのバンドのあと、いくつも作っては辞めてを繰り返すが鳴かず飛ばず。
そんな中、誘われるまま、気楽に入ったバンドが当時のバンドブームと重なって、
コンテストで優勝したり、地上波の番組に出たりして、
メジャーデビューを目指して良い雰囲気になったなんてこともあったが、
皮肉にもバンドの為に勉強しだしたフラメンコ(正確にはTomatitoの演奏)に
心を奪われ、バンドを辞め、フラメンコギタリストを目指す事になる。
フラメンコギターとの出会い
バンド時代に自分達の音楽に民族音楽の要素を入れたいと思い、
1990年 フラメンコギタリスト吉川二郎氏に独奏を習い始める。
約2年、週に1回~2回のレッスンを続けたものの
上手くエッセンスを取り入れることができずに
釈然とせぬまま流れに身を任せていた。
そんなある日のレッスン後、たまたま教室に来た先輩が
これからフラメンコの踊りのコンサートに行くということでついて行く事に、、、
その時に見た踊りの伴奏のギターは普段習っているものとは全く違っていて、
バンドには絶対にこっちを学んだ方が役に立つと直感で思い、先輩にどうやって習うのか聞くと、
踊りの伴奏のプロギタリストの横で弾かせてもらって、技を盗むのだと教えてくれた。
更に、
以前、通っていた踊りのスタジオが大きな公演前でプロギタリストが
毎週来ているということからスタジオとギタリスト両方にご紹介いただき、
承諾がもらえてスタジオへ。
そこに来ていたのが、
自分のフラメンコギターの師匠であり、
一生の恩人となる 木越剛氏だった。
それが、1992年10月、、、
毎週通うようになたものの、当たり前だが、何をやっているのかよくわからない。
そこへ、ある日、別の先輩が
フラメンコならコレを聴いたら良いよ❢❢❢
と3枚のCDを貸してくれた。
そのうちの2枚はロングヘアの美男子が
ギターを弾いているものだった。
衝撃が走った、、、
雷に撃たれたような、、、
アタマをハンマーで殴られたような、、、
(どちらも経験はないが)
釘付けになった。
それがTomatitoとの出会い。
その直後、バンドにフラメンコギタリストになるので辞めると伝え、
それがきっかけでバンドは解散となった。
そこから、師匠にプロギタリストになりたいと伝え、
1993年1月から本格的に修行を始める。
修行時代 ~日本編~
今は少なくなったものの
プロアマ問わず、踊り手は練習の一環として
プロのギタリストを呼び、
練習をするのが当時は主流だった。
(なぜなら、スペインがそうだから。)
なので、関西の踊り手さんの個人練習やクラスなど
師匠がギターを弾くときは声をかけて下さり、
横で弾かせてもらった。
初めて伴奏を勉強しだしてから半年ほどして
フラメンコの人達はスペインに留学するのが当たり前
だとたくさんの人から聞き、
よくわからないが行ったほうが良いのだろう、、、
と1993年6月に最初の渡西。1年間滞在することになる。
修行時代 ~スペイン編~
初めて降り立ったマドリードのバラハス空港のゲートをでた瞬間、
行き交う人がみんな自分をターゲットにする泥棒に見えた。
(出発前にみんなに注意喚起されていたので過剰反応)
フラメンコの踊り手であり、渡西経験がある方と一緒だったこともあり、言葉は何の準備もしていなかったうえ、英語もほぼ通じない生活は緊張感しかなかった。
失敗談を1つ、、、
到着した翌日。
朝、バルで教えてもらったスペイン語の言い方で
初めてコーヒーを注文。
緊張しすぎて
”Cafe con leche por favor.”
を
”Cafe por favor.”
と言ったため、ミルク入りの飲みやすいコーヒーではなく、エスプレッソの強烈に苦いコーヒーの原液みたいなカフェソロか来た。我慢しながら飲んだ。
(もちろん、言えば牛乳を足してくれてカフェコンレチェにしてくれる。)
一方で
このスペイン留学はとんでもない経験が
山のように起こるミラクルに満ちたものになる、、、
バルを出て、初めての安いフラメンコギターを買い、
その足で
フラメンコの総本山のようなスタジオ
”アモール デ ディオス”
で別の日本人の先輩に紹介してもらった
有名な踊り手さんのクラスに見学へいく。
すると、
まさにその日の朝、その踊り手さんのお母さんが亡くなったため、
踊り手さんもギタリストも来ておらず、
生徒たちは自習ということになっていた。
そこへ、ギターを抱えて行ったのだから、
クラスのメンバーが
「ギタリストか?俺達が踊るから伴奏してくれ!」
と突然の無茶振り!!!
「弾けない、伴奏なんてできない!」と伝えてもらったものの、聞いてくれず、
通訳してくれた先輩も
「どうせ、連中、ろくに聞いちゃいないよ!
気にせず弾いたほうが良いよ☺️」
と言われ、覚悟を決め、演奏。
がむしゃらに弾いた。
変になったら一人の男の子が僕のところに説明しに来てくれて
口で音楽を歌ってくれたりしながら最後は何となくだが弾いていた。
はからずも、スペイン到着翌日に
世界中からフラメンコを学びに来るスタジオの
チョー有名人先生のハイレベルクラスで
正規のギタリスト無し、たった一人で伴奏するという
貴重な体験ができた。
マドリードでは一ヶ月を過ごし、セビージャに移る前日、
アモールデディオスは別の場所に移転するため、最後の日だった。
(もちろん、偶然である。セビージャ移動を決めた後、日程のニュースが入ってきた。)
なので、
その前夜は別れを惜しんでたくさんのアーティストや愛好家が
スタジオの前でパフォーマンスをし、一緒にフラメンコを楽しみ、
誰もいなくなったスタジオを写真と記憶に収めることができた。
無事、セビージャに移動。着いた翌日に紹介してもらった練習スタジオの予約に行き手続きを終えると、そのオーナーから、
「お前はギタリストか?」
「今週末空いているか?仕事がある。」
と言われた。
僕のギターも聴いてないのに誘うなんて、どうでも良いイベントに賑やかしで呼んで
良いようにあしらわれるだけだろう、、、
と思ったが、
それでも良いから弾きたいと思い、承諾した。
すると、その舞台は
Vela de SantaAna
というセビージャでは特別な夏祭りだった。
僕を誘ってくれたスタジオのオーナーは
長く地元で子供たちを中心にフラメンコを教える踊り手で
メインステージで10名程度の生徒たちが踊るちゃんとした舞台だった。
歌い手もギタリストもみんな一流のプロ、、、
僕なんて入る必要全く無いのになぜ誘ったのかは未だにその理由が分からない。
ともかく舞台を終えると、
その主催者からギャラを渡された。
本当に仕事だった❢❢❢
そして、コレが僕のデビューとなる。
その時、スグに来週の週末も仕事があると言われ
結局、セビージャにいた約10ヶ月は毎週のように
どこかの仕事で弾いていた。
『奇跡』
1年間の留学生活が終わる頃、
在セビージャ20年の先輩ギタリストに
「物凄く良い経験が出来たな!!!
だからこそ、絶対に天狗になるなよ!!!」
と言われていた。
もちろん、そのつもりだったし
天狗になんかなるわけないと思っていた。
そして、帰国。
プロギタリスト 黎明期
帰国してひと月ほどして、お世話になって
いた先輩からご紹介いただき、
宇和島で舞台の仕事が頂けた。
帰国早々だったので、気分はスペインのまま。
舞台に上がって演奏すると、、、
「アレッ???何これ???
全然上手く行かない、、、」
いくら頑張っても
スペインにいた時のような感じにならない。
その舞台は全くなんの役にも立てず、
皆さんにご迷惑をかけただけの結果になった。
「天狗になるな!!!」
→
「弾けるようになったと思うな!!!」
なのだとその時、初めて気付き、
そこから本当の修行が始まった。
お仕事は師匠が僕のために自分の持っている仕事を手放して
まわしてくれていたおかげで何とかやっていけた。
だからこそ、それにこたえる実力のない自分の演奏でギャラを
もらうことが苦しかった。
プロギタリスト 安定期
帰国して自分のギターに何が足りないのか、どうダメなのか
を少しずつ見つけては改善していったことが良かったのか、大幅に仕事が増え、
活動も関西だけではなく地方からも呼ばれるようになった。
1999年
その時期から原点である“Tomatitoのような音楽をやる”という
夢に向け、グループを作ってギターソロの活動を始める。
併せて、ギターソロに必要なテクニックの向上、オリジナルの作曲等を始める
このころ、日本のフラメンコ業界でソロ活動をやっている人はほとんどいなかった。
自身のグループでは、最初は大阪だけ。次に東名阪でツアー、次は広島、岡山、浜松などを加えてのツアー、2014年、ベーシストと二人で最後のツアーをして以来、
まったく一人だけの演奏に移行する。(一人行脚の始まり)
そこから、2023年7月までに全国47都道府県 全県ツアーを二度完遂する。
その間、2006年~2021年までに4枚のオリジナルCDを録音制作
(2023年1st~3rdCDはSold Out)
現在
踊りの伴奏、歌の伴奏とギターソロ活動でたくさんの人とのつながりができて
他ジャンルの方々とのセッションなども何度かあった。
そんな時、自分はフラメンコを長くやっている割には
ギターや音楽を自由に扱えていない現実を目の当たりにし、
近年は“アドリブ”というものに力を入れるようになった。
そんな時、コロナがやってきたため一年間手探りでアドリブと向き合った。
結果は惨敗、、、
色んな知識や音楽の理解の仕方、捉え方、ギターの音の配列やポジションの記憶方法まで
時間をかけてやった割には演奏時に使えるほど整理されず、自分がどうなりたいのか、どんな演奏をやりたいのかまでわからなくなっていた。
2023年末、フラメンコギターレッスン講師をしている永田ギター教室の依頼で
ブルースを学ぶことになる。
ブルースはポピュラー音楽の原点と言われブルースを学ぶことは音楽を学ぶことだと直感し、快諾した。
現在、ようやく、アドリブ、ギターを思う通りに弾くことの糸口が見え始めた。
形やルールは違えど、音楽は世界共通。ジャンルは一部の違いでベースは同じ。
今、本心でそう思えるようになっている。
伊集院サダトシの公式Webサイトはこちら